5x3と3x5は違います。

概要

  • バツをつけたくらいでガタガタ抜かすな
  • 算数=数学+国語
  • 「正しい答えが出る式」は「正しい式」とは限らない
  • 義務教育の使命は「落ちこぼれを作らない事」
  • 数式で意図は表現できるし、表現すべきだ

参考サイト

おおむねどこの議論も堂々巡りなので
http://kita.dyndns.org/diary/?date=20101113#p02
http://b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/68853
とブクマコメあたりを参考に論点をひとつひとつ潰していくよ。

算数=国語+数学です

「数学の世界に国語を持ち込むな」とか言っている人がいるけど、算数とはそもそもそういうものです。「りんごが3つ、おさらが5まい」という日本語から「3x5(もしくは5x3)」という式を立てる、という過程は「国語か数学か」と言われれば国語でしょうが、「国語か算数か」と言われれば算数です。「算数」の守備範囲には、「実際の問題を数式に変換する」部分も含まれています。算数の指導要領には「日常の事象について見通しをもち筋道を立てて考える能力を育てる」と明記されています。
数学と算数の違いが大前提なので、最初に述べておきます。この文章では「数学」と「算数」の使い分けを意識的に行なっています。

交換則は関係ありません

で、「代数的には 5*3 も3*5も同じ」とか言っている人が多いけど。
算数では「正しい答えに行き着く数式である事」は「正しい式である事」を意味しません。大事な事なのでもう一度言います。算数の世界では正しい答えが出るからと言って、その式が正しい事にはなりません
立式というのは、数学にとっては「解を求めるための過程」に過ぎません。ですから基本的には解さえ合っていればすべてが肯定されます。現実には、ヤマカンで答えた訳じゃなくて計算をしたんだ、という証明のために式を要求されますが、その程度です。
ですが、算数にとっては違います。算数とは

  • 日本語(または絵図)から式を作って
  • それを数学規則に則って計算し解を出す

カリキュラムです。式は単なる解を求める手段ではなく、「式を立てる」事自体が評価対象となります。
3x5と5x3が交換可能というのは式を立てた後の世界の話です。問題は「5枚の皿に林檎が3つずつ」という問題を式に起こす際の過程の話、国語か数学かで言えば国語の世界の話です。

学校教育はバカのためのものです

5枚の皿に林檎が3つずつ、という問題で5x3を式として立てる人は大雑把に分けてこんな感じ。

  • よくわかんないけど、問題文に出てくる数字を適当に組み合わせておけばいいんじゃないかな」という子
  • 5皿x3つずつ、のほうが、3つずつx5皿、よりも自然に感じる子
  • 5x3と3x5が等しい事を理解しているので順序に無頓着な子

義務教育で最優先でカバーしなければならないのは最初の子です。そもそも義務教育とは国民の最低レベルを中卒レベルに引き上げるための制度であり、優れた子に英才教育を施す事よりも、おばかな子をまともな子にしてあげる事が優先されます。
最後の子が数学嫌いになる云々と抜かす方もいるようですが、心配しなくとも本当に賢い子は「式は"ぼくはわかっている"という事を先生に分からせるためのものなんだ」というルールをかなり早い段階で見抜きます。また、「自分にとって自明な事でも過程をすっ飛ばさず、万人に分かるようにギアを落として1から説明する」というのは理不尽でもなんでもなく普通に生きていくために必要なスキルなわけで、早いうちに叩き込んでおく必要があります。

式とは言語です

これは算数の問題を越えている。いかに採点者の気持ちを汲んだ解答を作れるかというコミュニケーション能力を計っている
とあるブコメより、前半はともかく、後半は正解です。コミュニケーション能力を測っています。数式はコミュニケーションの手段です。可換なものを、どのような順序で並べるかという部分で、計算者の意図を表現します。
数式の立て方が文化に依存する事がその証明でしょう。英語圏では「5枚の皿に林檎が3つずつ」は、日本とは逆に5x3です。数式が「ことば」だからこそ文化圏に依存するのです*1
「式で思考過程は表現できない」などと主張する人も多いようですが、「文章で人の気持ちは表現できない」「テストで頭の良さは計れない」と同レベルの話でしょう。

バツはたいした問題ではない

バツをつけると子どものやる気をくじくとか、ちょっと微妙だけどバツにまでする必要はないとか、マルかバツかをさも重要な問題であるかのように語っている人も多いようですが。
巫山戯るなボケ!
私はこういう考え方が学校教育を駄目にする元凶だと考えています。他の人たちは意見が対立しているだけなので許容可能ですが、この主張をする人たちだけは真剣に死んで欲しい。
バツというのは「これは採点者が事前に意図していた回答とは違う」程度の意味しか持たないはずです。不服なら異議申し立てをすればいいし、そこから新たな学びが生まれる事だってあるでしょう。答案返却の際、微妙な裁定でバツになった問題をマルにしようとするやり取りの中で新たな事を学ぶ、なんてのはよくある事でしょうし、一度バツをつけられた方が印象に残って以降間違えなくなる、なんてのもよく聞く話です。
試験の点数がちょっと低くなったから、だからなんだと言うのですか?定期試験のスコアで一喜一憂するなんてのは、ミニスカートの丈を競う女子高生以下でしょう。目的は学びであり、点数は目安に過ぎません。
バツをつけると子どもが数学嫌いになる」なんて妙な社会的圧力を教育の現場にかけるから、教師がどんどんバツをつけなくなり、バツの深刻性が無駄に増していくのです。
マルかバツかなんて、どうでもいい

返信

b:id:kurusupa s:id:Carnots1824 s:id:MarriageTheorem s:id:Sokalian s:id:mobanama

式を立てる過程自体に複数の正解がある。5×3は正解なので×をつけてはいけない。線引きが厳しい甘いの話ではなく、でたらめな線が引かれていると言う話だから○×の話は一番大事な論点だ。

私は「5×3は間違いである」と主張していますが。

b:id:ka-ka_xyz s:id:Sokalian s:id:OkadaHiroshi

「算数」の世界の中だけであればそれでいいと思うが、そうやって叩き込まれた思考法が、子どもが「代数」(数学)へ移行するときの躓きの元になってる気が。あと、数学的理解の上で順序を無視する生徒への説明不足。

b:id:hk2mr_hu s:id:MarriageTheorem s:id:tdam s:id:hatesenID s:id:coleus

×をつけられたからではなく、×をつけられた理由を説明してもらえないから、説明されたとしてもそれに納得できないから、生徒はやる気をなすくのでは?

前者:前半、カリキュラムとしての妥当性・効率性に関しては議論の余地があると思いますが、興味が無いので本項では触れません。後半ですが、問題を教師の質に摩り替えないでください。
後者:勝手に第三者の意見を表明する人は好きではないので「私ならやる気をなくす」とか言って欲しいものですが。前者と同様に、教師の説明の上手さや生徒の理解能力や性格までは責任をもてません。納得できるまで説明すればいいし、説明を要求すればいいと思います。

b:id:usataro s:id:kurusupa s:id:Carnots1824 s:id:Sokalian (x2) s:id:mobanama

「「採点者が事前に意図していた回答とは違う」程度の意味しか持たないはず」甘い。それは所詮問題作成者の論理。バツの生徒が異議申し立てをするとは限らない。/そもそも粗雑な作問だったことに問題があるのだが。

前半。3x5を5x3と入れ替えるか否かだけでブロゴスフィア(笑)がこれだけ炎上するのだから、何の反応も返ってこないというのはあり得ないと思いますが。問題の子は少なくとも親には話している(だから画像がアップロードされている)わけですよね。
後半。それはその通りで、あの問題はちょっと雑(もしくは要らんところで難易度が高い)だと思います。

b:id:MarriageTheorem s:id:Sokalian s:id:nabesems s:id:k3akinori s:id:foreseti

これはひどい, これはひどい, 教育, 社会, 科学 この件って「「立式」を問うなら単位付きで式を書かせろ」で終了だろうに何故頑なに単位の無い3×5と5×3を「違う」と主張したがるのか/「3枚の皿にりんごが3個ずつ…」に「3×3=9」と回答したら正解?不正解?

ひとりで複数同じタグを入れる、なんて芸当が可能なんだ、初めて知った。タグ出現数をひとりで操作できたりするのかな。
表現力は文章>単位つきの数式>単位なしの数式、です。単位つきの数式を強制しない理由は、文章をいちいち書くことを強制しない理由の延長線上だと思います。そして、3x5と5x3は単位などの表記が無くとも「違う」という主張は上記の通りなので割愛します。
ちなみに私は単位付きで式を立てる事も多かったです([個]とか[人]とか横に単位を併記するやり方は、確か中学辺りで知りました。標準的かまでは知りませんが通じなかったことは無いです)。
後半ですが、正解です。よかったですね。

スター多かったで賞(12個)人のエントリに言及しておく。
http://d.hatena.ne.jp/Sokalian/20101116/1289928627
先に言っておくと数学的な正しさや行列演算には特に興味が無いです。自然数の掛け算を問題にするのに集合論まで話を広げる必要があるなら仕方ないですが。

百歩譲って仮にそんなものが必要だとしても、「『かけられる数』を前に書く」という見るからに不格好で美しくない「ルール」、「かけ算とは、同数累加の略記法である」という冴えない「定義」は所詮、「前置修飾という日本語の構造」という、「日本の学校」特有の事情から生まれた便宜上のものに過ぎず、工事現場の足場のように、用が済んだ後は取り払われるためだけのものなのである。

同感です。用が済んだ後は取り払われるものでしょう。用が済んだ後は
「前置修飾という日本語の構造」という、「日本の学校」特有の事情から生まれた便宜上のものなのは確かです。学校教育で使う言語が日本語で、日本文化を前提としたカリキュラムなのだから妥当な選択だと思います。「日本語の文章から式を立てる」という過程自体が「日本の学校特有の事情」なのだから、日本ローカルルールはいかんというのであれば文章題を出題することを禁止すべきではないかと思います。

実際、交換法則の導入と共にこのような「ルール」は実は「『かけられる数』を後ろに書く」「どちらを先に書いてもよい」と全く等価であることは自明となり、全く無用の長物であったことが明らかにされる。数学に強い大人ほど「かけ算の順序」などという話に反発を覚えるのはこのためである。立派なビルが既に建っているのに、工事の時点で足場が東側にあったのか西側にあったのかなど無意味な議論だ、どちらからでも建てられるのだから、と。

はい。完成品しか見ず、建築過程を考慮しないのであれば工事の時点で足場が東だろうと西だろうとどうでもいいでしょう。同意します。今回の議論で問題になっているのはまさに建築過程だと思いますし、少なくとも私はそう書いていますが。

あ、TBも来てるのでそっちも。

自慢ではないが、私がそのことを理解できるようになったのは二十歳を過ぎてからである

適切な指導教員に恵まれずご愁傷様です。

あなたが記事中で書いた「巫山戯るなボケ!」という台詞をそのままお返ししよう。「ミニスカートの丈を競う女子高生」は幼稚に見えるかも知れないが、当人にとってはアイデンティティを賭けた闘争かもしれない、その程度の想像力がなぜないのか!まし、掛け算を習う小学校2年生はその「女子高生」の半分程度しか人生経験がないというのに!

幼稚だから「幼稚だよ」と切り捨てているのですが。自分の子ども相手でも「幼稚だよ」と切り捨てるでしょう。幼稚なものを助長するよりは幾分マシな教育方針かと思いますし、試験の点数にアイデンティティを感じているようなガキがいたら、掛け算の順序などよりもそちらをどうにかするほうを最優先すべきでしょう。「バツがつくとやる気をなくす」事に対する対策は「100点しか取れないようなテストを作る」事ではなく、「バツがついてもやる気をなくさないようにする」事で、つまり「バツが妥当なときはサクサクとバツをつける」ことだと思います。

何が「コミュニケーション能力」か。学術上の「コミュニケーション」とは、学問の対象から離れたものをできるだけ排除して、できる限り客観的視点だけで黒白をつけられるような禁欲的態度を指す。そのような場に「空気読み能力」のような不純物を持ち込むものこそ、真っ先に「トンデモ」扱いされて排除されるべきものである。

アカデミズムを問題にした記憶は無いですし、アカデミズムは無関係だと思います。「お皿の上にリンゴがみっつ」にはアカデミズムをかけらも感じないですし。

*1:3x5と考える思考過程を子どもに押し付けていいのか、というのは確かに微妙だとは思います。思いますが、どれかひとつの考え方を選択しないと教えようが無い以上、必要悪でしょう