政治離れの原因

まとめ

選挙区制が地域を区切りとしているのは、地域が帰属意識の中心だった頃の名残。
高度経済成長期以降、帰属意識の中心は企業へと移る。それに伴い政治の構造も産業を中心とした構造へと実質的に移行する。圧力団体や族議員の存在はそのために生み出された。
本来は各産業から代表を出すような代表制のほうがまだ望ましかった。
議員制政治が直面している問題とは、帰属意識の中心が地域や企業、趣味、立場など多様なレイヤーに散ってしまった事である。

はじめに

まあ、それはともかく「政治」が遠く縁の無いものと感じられるのは、「○○板住人ですが」的アイデンティティを汲み取れる政治的な言葉が無いからだと思う。そして、それは放置しておいていいことではない。

たまには政治ネタで。
政治がアイデンティティを汲み取れない原因は、高度経済成長期前後と今日とで少しだけ違います、という話。

選挙区制とムラ社会

現在の日本の選挙は地図上に線をバーっと引いて日本を区切ってその中で代表を選ぶ、という方式である。人を分ける方法は沢山あるのに、何故地域で切るのだろうか。
それは、選挙制度が考え出された頃にはまだ地域社会というものが生きていたからである。人は会社員であったり学生であったりする前に地域コミュニティの住人であり、そのアイデンティティは地域に根ざしたものだった。自地域から選出された代表はすなわち自分の帰属する集団の代表であり、自分の利害の代弁者であった。
しかし、資本主義の発展に伴い、人は地域を中心とした社会から都市型の社会へと移行する。

産業を中心とした政治

高度経済成長期以降、帰属意識の中心は地域から労働へと移る。人は勤務先の名前とともに記憶され、結婚式でも「〜の住人の〜」ではなく「〜社にお勤めの〜」と紹介されるようになって、地域のために何かをしようという気にはならないが、会社のためには給料分を超えて粉骨砕身働いたりする社会である。
それに伴い、政治の構造も産業を中心とした構造へと実質的に移行する。うちの会社によくしてくれる議員を選びたい、という意識、つまり自分を代表するのは自分の会社を代表するものである、という意識である。
ややっこしいので直感的に分かりやすく言ってみる。自分の住んでる市町村の代表が小泉に直談判できるのと、自分の勤めてる会社の社長がそうできるのとでは、どっちの方が幸せか、という話である。昔は前者だったが、今は後者と答える人の方が圧倒的に多いはずである。
で、圧力団体や族議員は、この「社長が小泉に直談判」に近いものを実現するために生み出された。選挙の段階で自分達の会社というか産業の代表を選ぶシステムが整っていないので、選挙後に金の力とか圧力とかで自分達の企業の利益を代表する議員を後天的に作っているわけである。

産業種別選挙という妄想

この時点では、今まで生活の基盤だった地域が会社に取って代わられたというだけで、構造自体に変化は無い。だから、地域の代表を選出する代わりに、会社代表を選挙して、それを国会に送り出すようなシステムを作れば、それはそれで幸せになれたはずである。
産業界を地図のように平面に描いて、その上に線を引いて選挙区を切っていく所をイメージすると近い。
地方自治はもとより国政とは関係ないはずだし、実際国会と地方を切り離しても何の問題も無い。
勿論、産業の大きさをどう議員の人数比にするのかとかいう問題があってどう考えても実現不可能だが、構造上は可能だというのがポイントである。次の段では、近代になってさらに変化が起き、これすらも不可能な構造になったという事に触れる。

価値観の多様化による「選挙区」制度の崩壊

で、現代である。
人が帰属意識をもつ対象は、農村部では相変わらず地域だったり、サラリーマンは企業だったり、阪神ファンである事だったり、Perlユーザである事だったり、モヒカン族である事だったり、mixi住人である事だったり、思いっきりバラバラである。
前段で産業界地図を描いてそこに選挙区を切ればいい、という話をしたが、それも不可能である。レイヤーがバラバラなので一枚の地図に表現できないから、切りようが無い。

「○○板住人ですが」的アイデンティティを汲み取れる政治的な言葉が無い

のは高度成長期あたりまでの話で、今ではこれは無いのではなく、選挙制度のもとで「存在し得ない」のである。